冤罪と死刑制度←移転先

冤罪と死刑制度

We are currently doing server relocation.

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--

We are currently doing server relocation.狭山事件寺尾判決

冤罪狭山事件と死刑制度の是非

狭山事件再審の活動などをやっておいてこう申すと奇異に感じる人もおられるか知りませんが、私は死刑制度には賛成なほうです。しかも適用範囲の拡大すら必要だと思っています。但し、その為には、冤罪を皆無とするに等しいほど防止策が担保されることが必要になるでしょう。逆に言えば、それが担保されぬうちは、死刑判決と執行を停止したほうが良いとも思っています。

では、狭山事件などのような冤罪を防止する策は何かと言えば、まず第一に証拠開示、第二に取り調べの可視化です。この二点を法によって制度化し、しかも中身は徹底したものにせねばなりません。そうしておいて初めて、現行法による死刑をやって良いだろうし、適用範囲を拡大するなら尚更です。

死刑の起源と現実

主いひ給ふ。復讐するは我にあり、我これを報いん
―旧約聖書 申命記
愛する者よ、自ら復讐すな、ただ神の怒りに任せまつれ。録して『主いひ給ふ、復讐するは我にあり、我これを報いん』とあり
―新約聖書 ローマ人への手紙:第12章19節

仇討ちは芝居でも映画でも、日本人がその世界観を好み、美談として喝采することが多い題材である。特に「曽我物語」「鍵屋辻の決闘」「赤穂浪士討入り」は、日本三大仇討ちと呼ばれて人気がある。歌舞伎・浄瑠璃から現代では映画・ドラマの題材として、常に欠くことの出来ない地位を占めている。そして聖書の文言にも見られる通り、仇討ちや復讐(をしたくなる犯罪被害者の心情やその是非)を如何に考えるかは、古来人類の根源的なテーマのひとつであるようだ。

日本では、仇討ちを禁止する国法として古くは御成敗式目があった。

或いは子或いは孫父祖の敵を殺害せんに於ては、父祖縦え、相知らずと雖も、其の罪に処せ被る可し。父祖の憤りを散ぜんが為に、忽ちに宿意を遂ぐるの故也。
―御成敗式目 第十条:殺害刃傷罪科事(1232年)

逆に江戸期になると、仇討ち即ち復讐は武士階級の名誉・面目を確立する制度として、刑罰としての「切腹」と共に法制化されていた。更に明治以降は近代刑法思想を取入れた結果、仇討ちも含め私刑一切が禁止されている。

人ヲ殺スハ、国家ノ大禁ニシテ、人ヲ殺ス者ヲ罰スルハ、政府ノ公権ニ候処、古来ヨリ父兄ノ為ニ、讐ヲ復スルヲ以テ、子弟ノ義務トナスノ古習アリ。右ハ至情不得止ニ出ルト雖モ、畢竟私憤ヲ以テ、大禁ヲ破リ、私儀ヲ以テ、公権ヲ犯ス者ニシテ、固擅殺ノ罪ヲ免レズ。加之、甚シキニ至リテハ、其事ノ故誤ヲ問ハズ、其ノ理ノ当否ヲ顧ミズ、復讐ノ名義ヲ挟ミ、濫リニ相殺害スルノ弊往往有之、甚ダ以テ相不済事ニ候。依之復讐厳禁仰出サレ侯。今後不幸至親ヲ害セラルル者有之ニ於テハ、事実ヲ詳ニシ、速ニ其筋へ訴へ出ヅ可ク侯。若シ其儀無ク、旧習ニ泥ミ擅殺スルニ於テハ相当ノ罪科ニ処ス可ク候条、心得違ヒ之レ無キ様致スベキ事。
―太政官布告:第三七号(1873年)

犯罪(者)の処罰は、租税の強制徴収によって運営される近代国家の、存在理由の一つでもある。存在理由では過言であるならば任務の一つと申してもよろしいであろう。私刑としての仇討ち(復讐)は、国家による犯罪人の処罰により代替されるわけだ。これが近代刑法の基礎であると言える。そしてこの思想は、『主いひ給ふ、復讐するは我にあり、我これを報いん』と言う事を近代的に体現したものである。この意味は「復讐をしてはならない、それは神の御業である、神が当事者に代って報いを与える」と言う事だ。

復讐や仇討ちと言うと、筆者=当サイト制作者はどうしても光市母子殺害事件を思い出してしまうのだが。残された夫は「死刑判決が出ないのなら、自分が犯人を殺す」と(無期懲役判決当時に)言っていた。筆者自身が一時期、犯罪被害者の会の活動に多少加わっていた事もあると思うが、筆者がその言葉に共感した事は事実。

狭山事件の再審活動に携わっている人、また狭山事件に限らず冤罪事件支援に参加している人の中には、誤審の可能性が排除出来ない以上、死刑制度に反対の立場に立つ人の方が多い事は容易に想像出来る。尚且つ、筆者自身も狭山再審に自分なりに積極的に参加させて頂くようになったにも関わらず、筆者は現時点でも個人的考えとして死刑存置の意見を持っている事は、誤解を怖れず記しておこう。その大きな理由は、犯罪被害者、殊に死刑選択も予想される重大犯罪の被害者(と遺族)の心持ちを思う時に、どうしてもその被害者感情を無視出来ない自分が居るからだ。自分自身がたとえば光市のような事件の遺族の立場に立ったと想定すると、筆者個人としては、その夫君と全く同じ感慨を持ち、もし犯人が死刑にならないのならば、「神も国家もないものか」と嘆き、文字通り仇討ちを決行するだろう事を、これは確実に思うのだ(その事で自分自身も殺人罪に問われることを覚悟の上で)。

また、筆者自身がそのような重大事件の「裁判員」として裁きの一端を担わなければならなくなる事も、確率は低くても十分に想定出来る。その時に、自分也に一応一貫した基準を心中秘かにではあっても、常日頃から充分に考え抜き、用意をしておく事も必要と考えている。

冤罪を防止しそれを強く非難し現実の冤罪事件を支援する立場に立ちつつ、それでも尚且つ死刑制度存置の主張を持つ為には、同時に捜査段階や裁判段階に於いて限り無く冤罪の発生を防止する仕組みの確立を強く主張すると共に(取調の可視化や証拠開示法制化は冤罪防止の為の大きな一歩です)量刑として死刑を選択するかどうかは、冤罪可能性が全く無いと言える事件のみに於いて、その可能性を考慮すべき事を主張すべきであろう。逆に言うと、死刑の存置を主張するからには、それとセットで冤罪防止の各種制度法整備の主張及び冤罪事件への積極的支援をもするべきだ。

冤罪可能性が無いような案件が果してあるのかと問われれば、それは少数ながらある。前述の光市の殺人事件がそうだし、秋葉原の通り魔殺人や大阪教育大附属池田小学校事件のように、多くの人々の眼前で犯行が行われその場で現行犯逮捕されたケース。現行犯では冤罪可能性は零だ。但し量刑として死刑を選択するか否かは、犯罪の計画性や情状を十分吟味した上ケースバイケースで決定すべき事は勿論である。

尚、死刑という刑罰が憲法第三十六条「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。」に於ける残虐な刑罰に該当するかどうか、それを突き詰めて考えてみると筆者にも迷いがある事も確かだ。また、それより低位の議論ではありますが、現行の死刑の方法(絞首刑)に就いて、それが残虐であるかどうかもその実態を調べて見ると実に考えさせられる処です。(絞首刑と言う執行方法も、太政官布告第六五号「絞罪器械図式」が現行憲法下でもそのまま法令として効力を維持している結果です。但し現在の執行方法は「地下絞架式」となっており、「絞罪器械図式」とは異なる)

恐らく死刑制度の是非に就いて、狭山事件、そのほか幾多の冤罪事件(特に死刑判決が出ている袴田事件など…)の当事者、支援者の多くの方々とは筆者が逆方向の意見を持っている事が想定出来、且つ心中少なからず迷いもあり、それだからこそ、いずれは忌憚なく、今現在のその意見を一度は整理しておくべきと考えてあえてこんなことを記した。冒頭の聖書の文言をもう少し別の観点から考えるならば、「神」を「国家」に置き換えた現代的解釈はもしかすると軽佻浮薄なものかも知れず、仇討ち、復讐は人(国家も含む)の為すべき業にあらず、ただ運命(神)に任せるのみ。とも思える自分が居る事も確かだ。



参考資料

狭山事件と法制度

取調可視化の必要性

去る17日の狭山事件再審東京集会に必ず行くつもりだったのが、当日昼過ぎから熱が出てしまって行けませんでした。昨年秋の現地調査に佐渡から参加されたTさんから、集会の様子を後で少し教えて頂いて、無念の感を強く持ったものです。

然るに、丁度その同じ日にいわゆる陸山会事件に於ける小沢一郎氏の裁判で、最早周知の如く石川知裕元秘書(衆議院議員)の捜査段階での調書に結局「自白の信用性」が無い事を東京地裁が認定し証拠不採用となった。こうなった要因は、石川元秘書が取調の際、秘かに行なった録音にあった。

その録音の一部はマスコミを通じて一般公開されました。それを聴いてみると、検察官による利益誘導と脅迫によるものである事が、法律の専門家でも無い一介の国民である筆者にも良く解るものです。この利益誘導と脅迫は、狭山事件に於ける「十年で出してやる」との甘言と、兄がやったのだと石川一雄氏に信じ込ませた(つまり自白しなければ実の兄を逮捕すると思わせた)結果、自白に追い込んだ事と全く同じ構造です。更に陸山会事件に於いて担当検事による虚偽記載を引用した捜査報告書が作成され、小沢氏の強制起訴を決定した検察審査会に提出されていた事が21日に判明しています。

昨年秋口頃、狭山事件関係の親しい人と会食した際にも丁度小沢一郎氏の裁判の話題が出、小沢一郎氏の政治家としての政策への賛否は別として「あれはどうも冤罪ですね」と言う事に意見の一致を見出しておりましたが、その可能性が高まったと言う事です。(話はまるで違いますが事のついでに記すと、狭山事件関係に於ける筆者の「親しさ」加減や、こう記すと生意気ながら人物の「評価」の基準は今や、石川さんの再審にどれだけ積極的に、個人として出来得る限りの事を尽くしているか否か「だけ」にあり、よってそれ以外の要素は筆者には不要です)

で、ここで特筆すべきは小沢氏の元秘書が取調の録音をしていたと言う一点にあります。つまりこの録音が無ければ今日の事態(裁判所の判断)は無かったと言っても過言では無く、それはとりもなおさず「取調の可視化」と言う事が、やはり、如何に必要であるか、と言う事であるわけです。被疑者が自ら隠し録りをしなければならない現状を転換し、最低でも録音、願わくば録画の制度化の必要性が、この間の成行きを見ても切望されるところです。

他方、狭山事件の三者協議に於ける証拠開示では録音テープ9本が開示されていますが、「自白」をした時の録音テープだけでは仕様がありません(勿論このテープに就いても弁護団が詳細な解析中です)。重要な事はその自白に至る過程にあるのです。

狭山事件以外の冤罪が疑われる(疑われていた)他事件に於いては証拠開示による再審開始、無罪判決や、上述の如く、被疑者がたまたま僥倖にも音を録っていた事等により、いくばくかの進展が見られました。狭山事件のみ、遅々として証拠開示すら進まないのであれば、これはやはり「差別裁判」と呼ばれても致し方がありますまい。

スポンサーサイト
2012/02/07
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。