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表現の自由と差別の間

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JE NE SUIS JAMAIS
CHARLIE

私は、此の狭山事件についての制作物を作っておる本人ですが、昔から、仕事上の必要も理由でしたが地球上の国、殊にヨーロッパ圏の国の中でも特にフランス贔屓で、言葉も習えば文化芸術に親しんでも参りました。たゞ、最近の事件と言論及び表現の自由の関係については、ちょっと違う見方をしている者でもあります。


狭山事件から表現の自由について学ぶ


狭山事件の再審活動を、自分の出来る方法で開始してからかれこれ十年経ちました。半世紀以上にわたる狭山事件の闘いからすれば五分の一の間でしたが、再審運動のいろんな場面の中でも、最も近く石川さんに接する事が出来、個人的な質問なども可能な場と考えて、現地調査を続けて参りました。その結果、過去に参加された方の中から、独自の方法で活動を開始された人も現れ、私の細々とした努力も、それなりの成果を上げたことが一応立証されたと思うものです。

狭山事件に関して自分が取り組んで来た事柄にも関連して、現在報じられておる状況につき、思うところをひとくさり記す所存です。


表現の自由は差別の自由か


近ごろフランスの首都やその近郊等で起きたいわゆるテロリズムと呼ばれている報復殺人の犯人の動機を見ると、自分たちの宗教の預言者や指導者に対する「からかい」や「侮辱」も彼らの動機のひとつとして挙げられていました。それで前もってはっきり言うと、彼らムスリムの動機のひとつとなったああした報道のやり口は、信教の自由への侵害や、もっと言えば全世界のムスリム全体に対する差別じゃあるまいか、と思ったわけです。(今回、事件に遭った新聞社とは別ですが、前に原発事故と福島のキテレツな漫画を載せていたのもフランスの会社です)

私はそもそも、結構な昔から、民族差別に関しては相当に鋭敏な神経の持ち主でしたが(そうなった原因のひとつとしては、かつて私が積極的に行っていた運動の活動者の中には、在日外国人の二世や三世も相当人数居たことがある。これが、政治運動と言うものを単純に見てはいかん理由でもある。そんなことはつゆほどに知らず、また『支那革命外史』を読むどころか書物の存在すら知らずに日の丸振って国粋主義とは片腹痛すぎる)更に後年、狭山事件に関わることにより、それまで気づかなかった差別(=具体的にはまさに部落差別のことです)とそれに伴う差別言論について知る様になった次第です。(チョットこのクダリを記しておったら大昔の憤怒がこみ上げて来たので、ことのついでに書かせて頂きますが、和歌のひとつも読んだり詠んだり出来ぬものが、国粋的な言動を騙ったり、馬鹿丸出しな他民族差別をほざいたりするのはたゞ笑止千万なだけですから、次はビール瓶か灰皿で頭を叩き割りますぜ。)

で、なんでもフランスじゃあ、たとえばムスリムの女性がヒジャブ=髪や頭やあるいは体全体を覆うベールのこと=を着用するのは、公的な場所では禁止されており、ヒジャブ着用で行くと無理矢理に脱がされ、この理由は政教分離の原則に反するからだとの事。でもそれって、信教の自由の原則のほうに反しませんかね。もしこないだのノーベル平和賞の授賞式の場所が、フランスだったら、ああいうベールは取れってことになるわけですね。過激なムスリムの唱える原理主義はダメでも、こっちのほうの原理主義はいゝんでしょうかね。

ちなみにフランスは、古くから政治的亡命者を受入れておりました。たとえば祖国ポーランドが分割されていたショパンは、最終的に亡命者としてパリで活動し、そこで死んでいます。イランの最高指導者だったホメイニ師も、パーレビー王朝時代はフランスで亡命生活をしておりました。


表現の自由と原理主義の間


一般に、ある体制の中である原則だけを原理主義的に押し進めて行くと、その推進する原則を有する同じ体制に内在する別の原則に反する事となります。これをほかのたとえで言えば民主主義に於ける物事の決め方に於いて、多数決の原理を以てすればそれで全てが決まり、少数意見などへの配慮はあっても所詮形式的なものとなり、逆に少数意見をどこまでも尊重するなら、なにごともいつ迄経っても決まらぬ事になります。

こう言う二律背反や相反する原則の絶対的な衝突を避ける為には、中庸の精神とともに、此の衝突を回避する為の別の原則なり規則なりを以てするしかありません。

それで、フランスでムハンマドを侮辱した、少なくともあるムスリムにとっては侮辱されたと感じ得たような言論や表現は、果たして本当に自由で良いのだろうか。ああいう野方図を野放しにすることそのものが、テロの温床となりテロの動機を作っているのであって、ああいうのを表現した側にとっては「健全な批評精神」に基づく「風刺」と言えても、それをやられた側が痛みを感ずれば、これは差別の構造そのものじゃあるまいかね。この日本に於いても別の事象に於いて全く同じ構造がありませんかね。

フランシス・フクヤマ教授が『歴史の終わり』に於いて喝破した通り、もし仮に自由経済と民主主義が歴史の到達点だとしても、ある国家や民族あるいはある宗教的共同体には独自の道徳があり、少なくともそれら個別の地域なり集団には個別の事情と発展段階が存在し、それを無視して人類普遍の原理なるものを地球上の如何なる地域、如何なる民族、如何なる宗教的共同体に対しても強要的に、それこそ原理主義的にばらまくならば、却って時代錯誤的な同化主義にしかならぬのです。

この二十年間ぐらいの間に、新古典派的な単純な経済理論の実践、いわゆる「グローバル経済主義」のことですよ、それのルール無用の適用が、どれだけの害悪を全世界とくに此の日本にもたらしたか、それを考えて見るだけでこの事情は理解出来るでしょう。


無制限な表現の自由は差別の温床


あらゆる差別は、江戸時代みたいな制度的差別が無くなった場所や時代に於いては、全てこうした原理主義から始まる。また、自らの言動や表現が、他者にはどう感ぜられるかに、鈍感になることから始まる。「俺があんたの足を踏んでも、俺は痛くないがあんたは痛い」差別とはこういうことだと言われる。足を踏まれて痛いからと言って、相手を刺し殺して良い道理はありませんが、原因は足を踏んでいることにあるのです。

政治的な言動も含め、下品なからかいや「風刺」は、たゞそれをする者の粋も雅も解さず知性も才気も持ち合わせぬ無教養と語彙の極端な少なさ、そしてあからさまで露骨な「差別性」を、自ら表現しているだけのものに過ぎぬ。それ自体が差別の土壌であり、極端な場合にはテロリズムの温床をも作っている。

世界中のムスリムを全部敵にまわして全面戦争でもする覚悟でも持つのなら兎も角、そんな過激な覚悟など持たんのなら、品性下劣な表現を伴った自らの内にあるカルトそのものの差別性にこの際気づき、それを芟除して改めぬ限り、デモなんぞに何百万人が集合しようとも、テロなんぞこれからも際限なく起きると思うよ。


表現絶対主義はカルト


表現の自由は民主主義思想にビルトインされた「絶対的な価値」とされ、この絶対性が拡張されると、容易に凶悪な排外性を発揮する差別主義へと転化する。

表現の自由を原理主義として絶対視するあらゆる人間・組織・国家は、全てカルト的な疑似啓蒙主義に向って陥没する。その傲慢且つ教条主義的な「自由」の拡張は、必ずや価値観を異にする他者との犠牲を伴う摩擦を生まずに済む事はなく、必然的に、望むと望まざるとを問わず、他者との戦争状態に発展する。

一般的に、同一の民族・文化・宗教・国家の内部に生きる者同士でも、考え方や行動の基準・生き方が完全に同一となるような統一を達成する事など不可能である。人間は皆違うものである事、個人は全て異なる事への無理解も、差別を促進する要因だ。表現の自由の絶対視は行き着くところカルト化し、それは嘗て、ある単一の思想が、あるひとつの国家や民族を支配するようになると、教条主義や絶対主義へと向い、結果、国家や民族自体を破滅の淵へと追いやった過去のいくたの歴史が証明している。

此所での結論としては、表現の自由は、『歴史の終わり』に述べられているような意味での民主主義の原理に内包された他の自由、たとえば不当な差別を受けぬ自由によって、制限を受け、表現方法について自発的に抑制されるべきものでしょう。


尚。この記事も最近の例に同じく、下の過去記事に上の文面を合体して作ったものですから、下については前に見た方はお読みになるに及びません。なんでこんな事をするのかと申せば、過去記事に新規記事を加える事により、検索対策のため、いわゆる頁ランクが上がるように施策していることによります。当分の間このように、頁数を増やす事無く、頁ごとのサイト全体から見た重要度を上げる施策をやる所存です。


狭山事件推理と言論の自由


インターネットに於ける所謂「匿名性」を、言論の自由がある事だと勘違いしているらしい人々が増加中のようですね。とくに狭山事件の推理をやりたがる人に此の傾向が強いですね。どうもよほどうしろめたいことがあるようです。

こんな事を思ったのは「インターネットは、匿名性があるところが良いと思います」と言うメンタリティー(=心情、とでも訳すべきでしょうか)に、関わるものです。それこそこの2、3日の事ですが、この狭山事件サイトをやってる関係上で、ちょっと本を捜している時に、たまたま見てしまったあるサイトの投稿の中に(投稿と言ってもべつに匿名掲示板のことではありません)(ありませんが匿名掲示板の投稿に関してでした)「匿名ならば、言いたいことが言えますよね」的な発言を読んで、そう思ったのです。

なるほど、匿名だと、なんでも言えますね。
この場合「匿名」とは、「ハンドルネーム」(古い言葉で言えば「ペンネーム」と言う事と、ほとんど同義です)も、勿論含まれます。だって、ハンドルネームとかペンネームとかと言ったって、所詮は、「偽名」に過ぎぬのですから。そして2ちゃんねるとかの場合には、それに更に輪をかけた感じで「名無しナントカ」と言う事になるわけです。

匿名、ハンドル、名無し…全て同じ事です。
旅の恥はかきすて、インターネットの恥も書き捨てと言ったところでしょうか。なんでも言える…と申しますが実は、別に上記の様な偽名を使わずとも(実名でも)なんでも言えますよ。それこそが、「言論の自由」と言う事の、本質的な意味なのです。自分がモノを言う(書く)事が原則的に自由に出来る…つまりは、それが言論の自由ですが、その際、自分の名前を隠す事、即ち、結果的な事かも知れませんが、「実は誰が言ったのか(書いたのか)解らんけれども、兎も角も、こう言う事を言って(書いて)ある」と言う事…が、本当に「自由」な事なのかどうか、ト、言う事です。

誰がそれを言っているのか、書いているのか、聞き手、読み手に解らぬ状態は、実は言論の自由ではありません、と言う事です。

言論という言葉でもって考えるならば、特に此の場合、社会的或いは政治的発言に関わるものの場合がその範疇に該当するでしょう。勿論そればかりでは無く、趣味や遊びの分野と言ったものも含めた言論総体として考えても良さそうです。しかし趣味や遊びの分野ならばいざしらず、社会的政治的な分野(此所の狭山事件みたいなテーマも其処に入るものです)では、そこで記した事言った事は善くも悪くも他に及ぼす影響が大きくなります。よって、ここで記す事柄は特にその分野での「言論」と言う事に一応絞っての事とします。


言論の自由に非ざるもの


匿名発言は言論の自由などでは無いということ。
何故かを良く考えてみましょう。まず、その言っている当人、書いている当人が、名前を隠蔽しなければ、発言を出来ぬことになるからです。要するに「自分の発言でない事のように偽らなければ何も言えぬ」のであれば、それは、自ら、「言論の自由」を放棄している、と言う事になるからです。

世の中にはもちろん、自分の発言である事を隠さぬと即ち名前を隠さないと、言論をする事そのものが自分やその周囲にとって非常に危険である、と言う国があります。筆者もそんな国の国民であったなら、或いはそこに居住や滞在をしていたならば、匿名の衣の陰に隠れるしかありません。つまり此の場合は「言論の自由がない国若しくは体制であるから(特に社会的政治的な発言は)匿名とならざるを得ぬ」と言う事です。

ですが今現在の日本、この国が果してそのような国でしょうか。明らかに違います。そういう国に居て、何らかの発言時に名前を名乗れないと言う事が何を意味するものか、普段なんの気なしに、匿名発言をしている方々はこの機会によく考えてみて下さい。

上に述べて来たような考え方からすれば、匿名であると言う事は、本来、実は実名でも言える事を、自ら、逃げ隠れする素地を作ってからでなければ何も言えない人間なのだ、と言う事になります。そしてそうした行為を今現在言論の自由が存在するこの国に於いて自ら行なうと言う事は、自らその自由を放棄しているのであり、それはそういう種類の人間であるからだと思って差支えありません。少なくともそう思われても仕方がありません。一般に、名前を隠したがる人間は、名前すら名乗る気構え無き人、何か後ろめたい事がある人、若しくはもう、明らかな犯罪者、且つその割には兎に角他人には意見をしたくてたまらぬ人、と言う事になります。


言論と表現の自由に伴う責務


匿名発言そのものがダメだと申しているわけではありません。匿名ならば何でも言えるし書ける、と思い込むメンタリティーの問題であるのです。まあこれは、「言論」に限らず、「自由」と言う事への、考え方次第によります。筆者は、「自由」には、「責任」なり、ある種の「義務」(或いは、その両者を合わせて「責務」と申すのが最もよろしいでしょうか)が、伴うと思うからです。もう少し簡易な言葉で申せば、そうしたことはモラルでありマナーの問題であるとも言えるでしょう。

これほど迄に普及しても、ネットに於ける言説が、何故、テレビや新聞と言った旧型メディアの後塵を拝する事になっているのか、ナぞ、思っていたわけで。まあほとんど結論が出てるわけです。要するに匿名の情報源と言うものがそのそもそもの始めから、信頼性が低くならざるを得ない、と言う事です。

例えば人物の名前が全部「Aさん、Bさん、名無しさん」であるような新聞があったとしたら。そう言うモノは、誰も読まなくなるでしょう。或いは、そのような新聞はある種の言論をすると弾圧される事になるある種の警察国家にだけ必要なものです。

言論とは何なのか、そして我々は何故固有の識別形態として自らの「氏名」と言うものを持っているのか、そこのところを良く考えて頂ければ、筆者がここで若干論じたような事柄は、むしろ今さら筆者などが述べる迄も無く、自明の理と言う事が解るでしょう。

2012/12/19

この「インターネットの匿名性」なぞと言うものが実は幻想に過ぎぬものであること(つまり個人の特定が技術のある者には容易に出来てしまうこと)は、狭山事件匿名性の考察として過去にも考えてみたことがありましたし、あれこれの議論の周辺事態や議論それ自体のありかたについても「狭山事件を議論する」と称して、これまた以前に書いたこともありましたから、まあ参考にしておいてください。


狭山事件に於ける実名記載方法


尚、狭山事件関係者の実名を当サイトの一部の頁の中で記載しており、その記載方針は此の狭山事件サイトの説明にしるした通りですが、当サイトにそれらのお名前が記してあるからと言って、匿名の発言者が、赤の他人の作ってくれた掲示板等でその名前を記すことはやめた方が良いでしょう。どうしてもそうしたい人は、そのようなお手軽なことではなく、自分で媒体を立ち上げ、自分の実名若しくはそれに準ずる実在する団体や組織名をきちんと記載の上、実施するのがよろしい。その結果、発言者は何らかの責任を問われる事があるかも知れませんが、それは自由と言う事に伴う当然の責務と言うものです。自ら名乗る根性の無い者に、他人の名前をあげつらう資格はありません。(それどころか、軽い趣味や生活の話題は別として、現実問題に対する発言をする資格も無く、それでもそういう発言をしたがる人はいるでしょうが、今や筆者はそれに受け答えする気はありません)(あと、狭山事件の本を出してるような人物でも、著者名や公の場で偽名を使用してる事が明らかな者は、実名を伏せたい何らかのやましい心のある人として、筆者の取扱に格段の差が出来る事はしょうがありませんよ)

筆者自身は、それらの記載により必然的に発生する責任の所在を明確にしつつ、且つネット上に於いては自ら立ち上げた媒体(当サイト等)以外の場所で発言する気も無く、また自分で媒体を持った以上よそでそれをやる必要は皆無でしょう。


狭山再審と政治的発言


こちらも今に始まった事ではありませんが時々、支援者の間で狭山事件再審には直接に無関係な政治的発言を野方図にする人が居ますね。そういう発言を耳にするたびに筆者が持つ感想は、「このひとは狭山事件を全然又は余り良く知らない人々にも広め更には支援を勝ちとる事を本気で考えているのだろうか」と言うものです。+そして「お前は此の場から出て行け」=ト、自分が言われているような気になる=と言うのでもあります。

例えばです。筆者がこの場や当サイトの何処かで、FTP賛成を大々的に唱えたとして下さい。FTPへの賛否など根本的に狭山事件再審に無関係ですが、ある政策やどの政党を支持するかは人それぞれです。いつの時代にも居る極端な無法者や不埒者は別として、あらゆる政策や政党や政治団体が活動可能な方が国家としては健全な姿でしょう。で、FTP賛成と唱えると必然的に、FTP反対の人に背を向けさせる事になると思いますが如何。

無論、FTP問題の方が石川さんが無罪を勝ち取る事より優先する課題だと考えているとか、或いは特定の政治活動を現に行っているのであればそれは自由ですト言うかいた仕方が無いでしょう。しかし、是が非でも狭山再審無罪を実現させようと思えば他の一切はその犠牲に、と申しては言い過ぎならば二の次三の次程度でよろしい。

筆者自身に限って申せばこのサイトでは自身の政治的主張や感情は最低限にして来たつもりだし、今後は最低限どころか一切しない所存です。先日の選挙で今の与党を支持した人が沢山いるのなら、その多数の人々にも狭山事件の真実を知ってもらい、支持支援を拡大して行きたいからです。そう思っている時に、その相手が支持した政治家なり政党の悪口を言いつつ一方で石川さん支援を求めて果たして受け入れられますかね。要するに優先順位の問題ですよ。

もちろん政治発言や政治活動は自由です。それに自らの政治的主張に少しでも反する者は再審活動からも排斥すべきだとお考えの方もそれなら仕方がありません。私自身が、そうした差別現場から出て行くだけです。私は私で、活動の場を自分で構築しましたから、ソレでも一向に、構いませんがネ。

それから、仮に政治的団体についてその是非は別として今後記す場合、所謂右とか左とか言う十把一絡げなもの言いはせずに、知り得る限り正式団体名を明記する事もこの機会に明記しておきましょう。何故ならそうした表現の仕方も差別そのものだからです。

等書いていた処、「私が知っているのは、基本的に私たちは何も知らないということー気になる狭山裁判」と言う記事を狭山事件再審の掲示板で知りました。つまり、こういうひとも居ると言う事です。そして筆者自身もある多少ある程度、当初は近いところがあったわけです。


自由のあるところでは、むろん
悪しきものも自由だ、しかしそれは消滅する、
なぜならそれは破壊の芽を内包しており
自滅するのが必然だから。

過去のことが心にしみたり興味をそそったりするのは、それらがまだ死から遠いころの出来事だからだろうか?

MÉLANGE DE RIZ=今宵のチャージ

riz mélange

なかなか旨そうに出来た様子です。


狭山事件領置票の開示


此の記事を書いたあと、狭山事件の証拠リストが開示されました。これは東京高検が保有する物的証拠の領置票です。要するに裁判の過程で、捜査機関から上がって来た押収物は狭山事件の場合だとまず浦和地方検察庁に送致され、次に有罪立証に役に立つと判断された証拠物は一審で浦和地方裁判所に提出された。次に控訴審では東京高等裁判所に提出され、上告審では最高裁判所に、そして裁判のステージが再審段階になると再び高裁に、となったが、未開示の証拠物は当然、東京高検に留め置かれ、今回開示された領置票はこの未開示証拠と既に開示されたものも合わせた証拠物のリストです。

これは文字通り「証拠物」のリストであって、捜査で押収領置された物質的証拠や取調べの過程で直接的に得られた証拠物等の一覧です。だから、この中にはたとえば捜査官や検察官が作成した調書や捜査報告書の類は含まれておりません。そうした書類の中にも重要な証拠があることは当然です。今後は、開示された領置票をもとにそこに書かれてある証拠物を特定して開示請求をなし、更にはそこに書かれていない上記のような関係証拠の開示をも同時に求め、究極的に前証拠の開示が求められることは申す迄もありません。

The Stratosphere Girl


The Stratosphere Girl

原題に忠実ならば「成層圏少女」となる。
その方が良かった気がする。

これだけじゃ余りにも舌足らずなので追記;邦題を直訳にした方が良いと思う理由は「この子は地球の生き物ではないね、きっと成層圏を超えて降って来たのだ」とか言う台詞もあるし、その場所が特に東京で無くても良かったと思うし(しかし日本人にはそこが面白いが)特別に「アンダーグラウンド」な部分を描いたものとも思えなかったので。

この映画、既に以前に見ていたのだが、ある旅の最中、ちょっと思うところがあってつぃ、注文してしまった、と言う話。

http://www.stratospheregirl.com/

The Stratosphere Girl
(C) 2003, PANDORA FILM Produktion GmbH
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2015/01/18
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