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何をなすべきか 狭山事件再審活動

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狭山事件について、議論を排除して具体的な実行を追求し、それの結果を掲載して来たのが此のサイトです。では具体的実行とは何なのか、そちらの結果も一応掲載しておきましょう。

狭山事件再審を拡大する方法

狭山事件第三次再審請求で再審を開始し、石川一雄さんの無罪を実現するための活動で、わたくしはコレ以上、ナニをナスべきでありんすかね。或いは、何かまだ出来ることがあるでしょうか。

こんにち迄に於いても、此の「狭山事件真相と検証」なるサイトを通じて、なるべく多くの一般国民に対して本件を知らしめるべく、全くのいち個人として自分なりに出来得る限りの活動をやって参ったつもりです。特に現地調査活動に大いに力を入れて来たものです。

何をなすべきか、この題名だけ見れば、知っている人は知っている如き、実におこがましいテーマでチェルヌイシェフスキー、とかウラジーミル・イリイッチ、つまりレーニンの同名の著作を知っている方には、何がどうおこがましいのか一目瞭然でしょう。

が、先頃ある提言を拝読して、この先の再審支援活動につき、自分なりの現時点で言える事柄を記してみようと思ったわけです。

何をすべきかって、まあ最初から解りきってるのでもありますが、狭山事件と言う事件がありそれの再審をやっていることを、もっと一般の人々に知ってもらう努力をするのが単純に言ったらこの結論になります。但しこゝで言ってるのは知ってもらう努力をする場合に具体的に何をどう努力するのかって話です。狭山事件に関わっていると、何しろまわりがほゞ全員、狭山事件が冤罪であることを知っている人たちばかりだから、つい忘れがちですが世の中の人のたぶんほゞ3分の2以上は、本件を知らぬわけです。オウム事件ですら知らぬ人がいるのだし、それ以降に生まれて社会参加した若い世代はもちろんのこと、旧い世代だと年取り過ぎて半世紀も以前のことなどもう忘却のかなたとか、そんなことも有り得るわけです。

少し以前に、この場で、狭山事件を知らしめるためには前例のない事をやろうと言うような事を書いたのは自分でも当然良く覚えている。ところがそれから、何ら前例の無い事柄を思いつけず、この件については黙っていたのです。

部落の人が、部落解放同盟を通じてあらゆる活動を行なうのは当然なのに対し、僕のようなそうでない人民はどうすれば良いのだろうか。その答は既に判明しており、それは自らその組織の活動に能動的に関わる事だった。今迄それをやって来たつもりだし、これからもそうだ。5月23日の時に、部落解放同盟のある方から、もう解放同盟はあまり表に出ない方が良いのでは、と言うご意見を拝聴したが、そうは思わないのでそのようにお答えした。

そもそも差別を受けて来続けた側が団結し組織を作り差別と闘うのは当然の事だし、時には峻厳な糾弾を行うのも然り。自分自身もその立場であったならそうしていただろうし、と言うか僕は自分の血筋などに関心が無いもので調べた事などないのだが、もしかすると僕自身の比較的近い先祖が部落の民であったって可笑しくない。まあそれは兎も角、現在迄の狭山事件闘争に於て、部落解放同盟が果した役割は大きいのだから、今後ともそれで良いと思う。

いずれにせよ問題はやはり、組織化されていない個人をどう引きつけるか、関心を持って頂くか、と言う事にあるのだろう。

まずは既に携わっている側の運動に関わる姿勢についての思いつき。

狭山事件は娯楽に非ず

誰のためか 楽しいかどうか

例えば、再審の支援は一人石川一雄氏の為だけでは無く、ひいては自分の為なのだと言う意見があった。その理由は勿論自分自身もいつ何どき、冤罪の憂き目を見ないとも限らないからだ、と言うものだ。もっともだと思うが、僕個人としては支援はあくまで石川さんの為にやるのであって、自分の為にもなるとかおのれ自身がどう得をするとか、そういう心持ちは毛頭無い。ひとを何らかの形で助けるとか支援すると言う行為に於て、何ら自己犠牲が伴わないと言う道理は無いと思う事がその心持ちの所以だった。暗にでも見返りを求めて本当の事が出来るものだろうか。と申せば何か殊勝で奇特な事を言っているように思われるかも知れないが、そうではなくて、これが厳しい現実なのだ。考えても見るが良い。危険を冒さずに、安全地帯からものごとが出来る、と考える方がおこがましいのでは無かろうか。

実はひとを助けるなどと言う事はとてつもなく難しい行為である。道ばたで転んだおばあさんを助けることは出来るかも知れない。では踏切に倒れたお年寄りを助けに行き、その結果自分が死ぬとすればどうだ。つまりあれをやって、これをやって、それで人助けをしていい気分に自分がなる事と、本当に助ける事が出来たというその結果とは、本来全然別ものなのだ。

ちょっと、話が根源的なところへ行き過ぎたようである。で、同様に、支援活動そのものが楽しくなければ人が増えないと言うのも、僕自身はそうは思いませんね。何ごとも、達成する為には苦しい事もあるもので、それを自分流に申せば「何ごとも根性」と言う事になる。この楽しいと言う事が、へたをすると身内の閉鎖的なものと外部に映り、近寄り難いと言う事だってあり得るのだ、そういう事も、つたない経験上考えた上での考えです。もっとはっきり言うと、

お楽しみ狭山事件真犯人の推理で沢山

と言ったからって別に苦しめとは言いませんけど、まあそういうことです。

こうした事情が解るのは、あらかじめ掲示板等の交流も全く無しに、いきなりメール一本で申し込みと受け付けをやり、その日その時に初めて会う全くの見ず知らずの人達と現地に集ったその繰り返しにある。

但し、これは僕自身が個人としてそう思いその思いに基づいて実行したい、と言う事であって、別にそうでないふうに言ったりしたりしたい人は自由だ。しかし自分達がそうだからと言って、そこに居たり近づいたりして来る人間が皆、自分達の流儀で何ら支障が無いと思い込むような無神経さは、無ければ幸いだけど実はこれが人に近寄り難い雰囲気を醸し出している原因かも知れない。

もとより、例えば午前中から高裁前に行き、ビラを静かに配り、要請行動では努めて冷静に高裁や高検の担当者に言いたい事が言えて、集会とデモが終了した後には「仲間とともに今日はこれだけのことをやった」と言う否定出来ない達成感はある。それに、現地へ出かけたり、行事に集ったりする事は、とにかく石川さんを励ませるのはこれはもう、確かな事だ。

今年の5月23日の日に、裁判所の前でふと、ある方から「皆、おれがおれがと目立ちたいのが多いのに、あなたは控えめ」の旨、仰せがあった。この方は僕自身の心持ちを多分ある程度は解って下さっていたのだと思う。それは、ありていに言って、既に出来上がっている運動に参加して動く事は、非常なデリカシーと謙譲の心得が必要となるというものだ。自分はそれがある種の美徳と思っているのだが、考えようによっては、外部から入って来る者が抱く一般的な疎外感、と言うのも言葉が適切では無いようだが、そう、やはり一種の近寄り難さがそうさせているのでもあろう。その割には図々しく、参加はさせて頂いて来たのですがね。しかし僕がこれまで関わって来て、まだこうしたそこはかとない感じがあると言うのは、まだ僕ほどにもこの活動に関わっていない人達の、ある種の気分を自分もまだ奥底に共有している、と言う事なのだろう。

近寄り易い環境整備、それがもっと必要に思うのである。しかしその為に自分の為でもあるとか、お祭り的なお楽しみを演出し過ぎるのは、こうした運動本来の現状にそぐわないと思うし、誰よりも石川一雄氏に対して失敬では無いだろうか。ご本人に聞いたわけでは無い。ただ、気は使い過ぎて過ぎる事は無いと思うのだ。

狭山事件 目的と手段と結果

言う迄も無くこの運動の目的は、狭山事件の再審を開始にこぎ着け、石川さんの無罪を勝ちとる事である。その事は同時に結果でもあるが、取り組む以上当然結果は成功でなければならない。この事は至上命題と言って良い。その為の手段と、その手段に応じた小目的が、大変大きく分けて二つあると思う。ひとつは市民に対する周知、もうひとつは裁判当事者への働きかけ。

狭山事件そのものへの関心を広める

第一に、前述もしたし今迄も言って来ているように、狭山事件を知らない、ほとんどご存知ない、又は無関心と言ういわば無党派層人民へ浸透さす事。ただ、この手段には僕自身も目新しい方法を思いつかないでいるのは上に書いた通りなのだが、この点について、映画を作ろうと思い立ち、遂に完成と公開にこぎ着けた金聖雄監督には頭の下がる思いがする。

現実問題として、デモ行進がこの第一の方の手段と目的の為には現時点では余り効果が上がっていないのは事実だと思われる。「狭山差別裁判」の連載をしておられる菅野良司氏は次のように記しておられた。

(デモが銀座通りを通過する際)その次の瞬間、隣に立っていた中年の女性二人組の会話が聞こえてきた。「無実だって言ったって、本当はやっているかも知れないじゃない」「そうねぇ、わかなんいわよ」買い物途中にたまたま赤信号で止っていてデモに出くわしたと思われる女性らの会話は、この二言で途切れた。目はプラカードを追っていたが、信号が変るとデモなどなかったかのように和光方向へ横断していった。幸いにも冤罪被害から遠い位置に立ち、狭山事件の詳細を知らない市民に、石川さんや支援者の思いは届きにくい。

僕自身は正直言って、知りもしない事にたとえ雑談とは言えコメントを垂れ流しつつ結局そのわかんない事を知ろうと努力しない人民は人民の敵。とか言う感想は置いておいて、一般人民の皆が皆こうだとも思わないが、こう言う人達が最大公約数的な存在なのだろうと思う。つまりここではデモ行進は、手段としては別の目的を持った行動だと認識する方が良い。その他正直、一般のつまり組織化されていなく狭山事件を知りもしない人々に対して宣伝をする方法は、今の時点ではただもう、地道な努力だけと言う結論にならざるを得ない。

裁判所、検察への働きかけ

今回の菅野氏の記事には、今ここで考えているテーマの上で、いろいろと考えさせられる事柄が多かった。第二の、手段としては、法廷を司る裁判所=裁判官と検察庁=検察官に対する働きかけ、つまりは要請行動があると思う。他にもいろいろあるけれども、これをもっと悪く言うとゲリラ的に実施するのは如何。やはり菅野氏が述べているところなのだが、裁判官や検察官に、その裁判に関心が持たれている事、署名活動やデモが行われている事実を知らしめる事自体に意味があるのではないか。しかもそれがそれこそ部落解放同盟の組織の人だけが居るのでは無い事を、である。

基本的に裁判は訴訟当事者間で行われるもので、厳密な証拠による立証と、その有無が結果の白黒を決める。それを承知しつつ、再審開始を望む声を届ける事はもっとあって良い。

狭山事件情報発信の仕組み

僕自身は部落解放同盟を通じて集会などの日程や三者協議や証拠開示などの情報がある程度は入って来る。自分の方にそうしたものが一定程度でも入るようになると、つい、入らない人々の事には思い至らなくなるのだろうか。そう思える事が時々ある。こうした精神状態で現状を変えられるだろうか。具体的には、もっと多くの支持を得る事が出来るだろうか。

裁判はあくまで訴訟関係人と法廷だけで良い、と言う事であれば、法廷外の運動など必要が無い事になる。でもそんな主張をする人は一人も居ない。だから、証拠開示や新証拠や意見書は、有利なものであれ不利なものであれ、法律上許される限りで、且つ今迄よりも可也の程度、僕の言葉で言えば一般人民にもその現状を解り易く伝える事は、狭山事件やその元被告人が裁判のやり直しを求めている事実、解明されない事実の存在、有罪判決に合理的な疑いを生じさせる新証拠の存在を知らしめる事に繋がり、関心人口を拡大する。尚且つ支援活動者にとっても、有利な証拠が出れば志気向上に繋がり、仮に不利な状況にあってもそれを知れば一層の奮起を自らに求める事が出来る。

法律上の制限がある事は承知しつつ、出来る限りに於てそれらの情報を特権的に扱うのであってはならないと思う。丁度、検察官が、捜査段階で捜査権によって集められた証拠を独占している現状を打破しなければならぬように。

菅野良司 裁判員時代にみる狭山事件
「裁判員時代にみる狭山事件」 菅野良司著
2009年の本ですがお薦めです
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2013/11/25
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