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狭山事件真犯人先生説

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狭山事件真犯人に関するどうでもよい謎が、またひとつ増えた。

狭山事件の真犯人は担任教師?

狭山事件の推理はいよいよ手詰まりになり、今や真犯人の「説」と称するあらゆる風聞が、今や儚い泡のような絵空事に没落しつつあるところ、なにかまたぞろ昔のうわ言に輪をかけたような恥ずかしい話が出回っているらしい。

なんでも、真犯人は中学校の先生だそうだ。近ごろ出た雑誌掲載の文面で「いままで誰も提起しなかった驚愕の真犯人像を切り出した」と言うから、どんなものかと一応は読んでみたのであるが、結果から申し上げると事前の想像どおりで箸にも棒にもかからない。それによると、狭山事件の犯人をプロファイリングすると被害者の中学時代の先生になったらしい。中学教師と言う職業を特定しているのがこの推理の特徴のようである。

プロファイリングとのことだが、要するに現場へ行って、似非霊能者まがいのことをした後に適当なことを述べたまでである(適当と言って語弊があるとすれば、過去の狭山事件真相の推測で犯人に擬せられていた人物を別の人物あるいは教師と言う職業で代入し直したもの)。

それでも内容がそれなりに豊富ならばサイト本体で敢えて一頁を割いて検討なり批判なりを加えてみる気もあったのだが、そこまでするほどのものでは無いので、この場で軽く取り上げて見よう。緻密な論旨や検討は何も無くただ「犯人は担任の先生」と断言している。この場合の「先生」とは、勿論中学時代の担任の教師はざっと3人いた事になるが、被害者の中学校3年の担任の先生であった相沢健一氏のことを指すと受けとめるのが一般的なようである。

A先生は狭山事件の真犯人か

可能性と言う事で言えば、当然相沢健一氏も犯人の範疇に入って来る。が、どうしても相沢先生でなければならないとする根拠は何も提起されていない。文面から根拠らしきものをいくつか拾ってみても、

*犯人はIQが高い臆病者
 犯人推理本でもそう書かれている例があった。
 要するに一般的にも、その説が多い。
*脅迫状は知能が低い者を装っている
 同意する。つまりこれも既に周知の説。
*それは農民ではない
 これはその前の文章「万年筆とインク消しを扱い慣れている人物」=それは農民ではない、と言うことならば、長兄はどうだったのかを思い出して見よう。農民と言うある職種を言って、狭山事件の脅迫状を書いた者の職業をそのように決めつけるのは単なる世間知らず若しくは視野狭窄と言う事になるだろう。更に言えば、農業従事者蔑視の姿勢さえ見て取れ、もしそうであれば糾弾されて然るべきだ。
*土地勘がある、カネ目的では無い
 これも既出。今さら言われる迄も無い。

狭山事件の真犯人は担任教師か

相沢先生の事はひとまずおくとして、職業が教師且つ被害者の「担任の先生」とするための緻密な説明は上記のように何も無く、あるのは既に出ている他説で指摘され尽くしてきた感のある論点だけである。

犯人に該当する人物を、疑って行くならば、相沢健一氏ももとより怪しく見えるし他の担任だった男性教師も怪しく見えるし、以下同様に被害者周辺の子供以外の男性は全てそれに該当する事になる。もしある特定の人物(特に実名がはっきりしている者)を犯人Xに代入する場合には、そのような一般的且つ粗雑な事では無く、どうしてもその人物でなければ説明のつかない事、或いはその人物にした場合に説明出来る事などを、多少の仮定や推測の類いはあっても、もっと精密に論旨を組み立ててかからねばならない。また、そう言った作業をする場合には、結果的に、最低数頁以上のウェブサイト若しくは本を執筆しなければならないだろう。

当サイトで狭山事件書籍として紹介している著者達も全てその賛否は別として、そう言った作業を経て、自説を発表しているのである。

しかし、まあ、狭山事件に関する知識が「母校のキャンパスに新左翼が立てた狭山事件の看板を見た程度」と言う御仁に、つまりその後は何も努力をしない人物に、ソレを求めるのは無理と言うモノかも知れない。

狭山事件の被害者と教師の関係

そもそも、本件被害者と、中学であろうが小学校であろうが、学校の教師との間に特殊な関係があったなどの証拠は皆無だ。こういうことを言うと推理オタクから必ず「でもその可能性はゼロじゃないんですよね」とかの知的水準をあからさまに示す台詞が聞かれたものだ。言っておくがある人物や職業の者を犯人つまり有罪だと決めるためには、証拠能力のある客観的事実がなければ駄目である。

しかも唯客観的事実だけを持って来れば良いのはない。客観的事実は、それだけでは証拠能力を持たぬからである。例えば前述のA先生だと、被害者の中学校の教師で3年の時の担任の先生、英語の教諭だった。事件当日、第二ガードで被害者を見かけ、これは狭山事件の目撃情報のひとつとなった。付言すれば、A先生が引率していた野球部の生徒のうち少なくとも4人が、のちに事情聴取又は聞込みを受けており先生自身も供述調書を取られているものと見られるが、石川単独犯説に都合の悪いそれらの証拠は当然未開示である。

事件が勃発すると、PTA会長と一緒に捜査当局にもそれなりに協力していた。ざっとこれだけの客観的事実があるが、じゃあそれがどこでどうなると、彼が犯人であることの証明に結びつくのか。それともほかに犯人であることを示す客観的事実があるのか。全く無かったろう。

このように、推理とは、たゞの空想、ひとつの客観的事実に別の客観的事実を無理に結びつけ、更にありもせぬ物語をでっち上げて、やっと推理が完成する。狭山事件の被害者と先生の間に、特別な関係など無かった。

狭山事件の被害者方とA先生

被害者自身とA先生の間柄が駄目なら、A先生自身が被害者の一家について、殊更に良く知っていた事はあるだろうか。これは有り得るだろう。何故なら、勿論A教諭が担任の教師だったからだ。学校の先生と生徒の家族との間柄は、狭山事件が起きたような時代や地域にあっては、おそらく今日よりははるかに緊密、と、言うと語弊があるだろうが現在よりはそれなりに近いものがあったものと思われる。但しその度合いは個々それぞれで、それこそ証拠無き限り断定せぬほうが良い。しかし一般論としてなら、この時代の農村地域では、今の普通の中学校の先生などよりは生徒の家庭環境を知っていたと見て良い。

そこから、野間宏氏の「狭山裁判」にある相澤建一先生が語ったとされる要旨次のことば「(被害者方が)変った家庭であった旨を告げ」の記述も出て来たのだろう。後年、亀井トム氏の本に描かれている荻原佑介氏の文面とも相まって、この記述が拡大解釈されるようになった。

もともと不明なものを、ある一定の方向へ拡大解釈した上に更に脚色を施せば、容易に推理とか説と言ったものが完成するありさまを多々見て来た。狭山事件と出生の秘密とか、被害者一家を巡る内密な怨恨に類する諸説がそれだ。

証拠主義に徹した正確な記載を望むなら、こうした事柄を狭山事件の検証対象から外すのは当然だ。

狭山事件と暴力教師の真相

冒頭で取り上げた本=それもこの世になくても良い愚劣雑誌=は別として、その所謂『A先生』が獰猛な暴力教師であったとか、あるいはA先生に限らず様々の「証言」なるものがあるらしい。ここで簡単にそれらの処置をしておこう。いい年令になった者が子供の頃の恨み言を言う事は、まさにそこまで激しく恨んでいると言う事実によって、その証言価値は大幅に減殺される。考えてもみるがよい。被害者が今日生きておれば還暦前後の歳になっている。つまりA先生の教え子は皆、その前後の年令と言う事になるが、そういう齢になって、兄弟して、かつての担任教師の凶暴さについて口を極めて罵る方が異常である。そしてそうした証言をする者がほかにいない。これが何を意味するかと言えば、その二人が何らかの変態なのであり、変態の言う事を真に受ける者は不要である。また別の「証言」によれば堀兼中の野球部は狭山事件の当日に試合を、しなかったらしい。そうかね。

兎も角、広澤証言も結局そうだったが、時と場所や相手によって変る「証言」などに証拠能力は皆無だし、それに基づいて為される「推理」など、初めから問題外だ。

この手の「証言」を読んでいて似たような例として思い出すのが矢田喜美雄氏の著作「謀殺下山事件」である。この本で要旨=「下山総裁の死体を運ぶのを手伝った」と言う証言者が居ると知った時には筆者も少なからず興奮したものである。だが後年、松川事件の被告でもあった佐藤一氏著「下山事件全研究」を読んでからは、この手の証言とか言うものが如何に良い加減で信用性を欠いているかを知った。

証言者当人が見聞きした、体験した、と称するものでさえそうであれば、単なる噂レベルに過ぎないものは尚更であろう。

狭山事件の推理や取材と称するものがなぜこうしたものに陥るのか、それは「証言」という語句の使用法にある。誰かが何処かで何と言っていた、これを日本語として証言と呼べば呼ぶことは出来るが、殺人事件を含む刑事事件に於いて事実の立証のための証拠として採用される要件としては、反対尋問を通過するか、または信頼性を担保されるべき特別な状況が確保されることを必要とする。これにあらざる供述は「伝聞証拠」と呼んで証拠価値は一切認められず証拠調べの対象にもならず最初から排除される鉄則だ。つまりありていにいえばそこらの巷で集めた供述は全てたんなる四方山話や井戸端会議として相手にされない。たとえばテレビでやる街頭インタビューが証拠価値をもつ「証言」の資格があるかどうか、考えてみれば明白だ。

当サイト内の狭山事件裁判の記録頁とかに、証拠とは何を指すのか、証言とはどんなことを言うのか、言葉本来の厳格な意味と使用法を明確に示したのを見ても解ると思うが、此のサイトでは、噂・伝聞・風評・デマ・たんなる想像=すなわち犯人詐欺師のたわ言全部を取り除いたもの即ち証拠能力を有する事実のみを狭山事件の資料として使用し、記述の正確性及び厳密性を最大限に担保してある。これが、推理サイトはもちろんのこと、狭山事件についてあれこれのことを好き放題に書いたそこらの個人ブログなんぞ(たとえ再審支持を標榜していようとも)十把一絡げにゴミ出しして良い所以だ。

狭山事件真犯人説はもう終り

その雑誌記事(での発言)や上述のような証言に基づく推理も、せめてその位の緻密な考察が伴っていれば、当方ももう少し詳細な論評を加えられると言うものですが、残念な事です。こゝでは教師犯人説について、犯人=担任の先生説の内容が「余りにも乏しい」と言う事を言ってるのであって、「担任の先生は絶対に狭山事件の犯人では有り得ない」と言っているのでは無い事は勿論です。いや言い方が逆だな。担任の先生が犯人だと言うのなら、絶対にそうだと言い切れる程度の証拠が必須となるのです。

しかも同時に、担任の先生と言う犯人像が、別に全然「驚愕の犯人像」じゃありませんよ。繰り返しになりますが、男女関係の清算説や痴情のもつれ説、犯人顔見知り説(身内犯行含む)は、全くの既出事項です。被害者と男女関係や顔見知りを想定したなら、担任の先生含む子供以外のあらゆる男性と、血縁者含むあらゆる知り合いが犯人として想定されて当然と言う事です。

動機がカネでは無い当サイトや他の狭山事件サイトと異なり、売り上げと利益を得なければならない書籍出版ではある程度は仕方の無い事なのかも知れませんが、「驚愕」と言うようなセンセーショナルな文言を前面に出しながら、その実、内容の方は余りにも乏しすぎる、と言う出版業界のあり方にも問題を感じた次第であります。読者から「カネを取って読んでいただくのだ」と言う事を、もう少し考えて欲しいものです。

こゝで書いた事は、此の推理は良くてアノ推理はダメとか言う事じゃなくて、もうとっくに狭山事件真犯人の推理が棄却された事です。あれから何年経つと思う?その点まだ、と言うか今どき推理の優劣を競ってあれこれ難癖をつけてるゴミ同然の少数派のひとたちと、一緒にしないように注意して下さい。

狭山事件推理マニアはもういい

ある時、ある推理マニアからある狭山事件推理書籍の著者=当時新たに犯人説の再推理を開始されていた=と会って来たからその報告をしたいような申し出を受けたこともあった。しかしそうしたざれごとを、いちいち聞いているほどヒマではなかったしそれに第一、この推理書籍の著者Kさん(部落解放同盟全国連系の方)がどういう方か、わざわざ恩着せがましく教えてくれなくとも教えようとするマニア以上に既にもう知っていたし、どこで活動しどこへ行けばお会い出来るかも解っていたし、別にお会いする気もそもそもなかった。何故なら狭山事件推理はもう終ったからだ。単に自分個人の中で終ったのではない。世の中一般として、もやは狭山事件の犯人探しは、とうの昔に終っている。

尚、上記の方の著作や説に於いては、犯人は氏名を特定せぬ「X」として語られており、明白な狭山事件冤罪の加害者である推理マニア一般と比較すればまだしも罪が軽いことはこの際付言しておこう。

いずれにしても、ここでとりあげた千里眼推理に限らず、氏名不詳の怪しげな人物への取材とソレを元にした文筆物だの、犯人推理なんぞは所詮、筆者にとっては下等フィクション&劣悪エンターティンメントであるに過ぎないし、その製造者など目障りで不要な役立たずに過ぎない。

狭山事件真犯人驚愕説

本件の犯人説としては、たとえば狭山事件長兄真犯人が、未だに理解に苦しむほど人気がある。これは長兄の初期の態度と法廷証言との間に落差があるせいで、ある程度は仕方なきことかも知れぬ。しかし、犯人長男だの長兄だので検索している事自体、その者の知力と知覚に疑義がある。

つぎには、狭山事件石田登利造説や養豚場説が何の根拠も無く騙られることが多い。一応根拠は示されるのだが、別の解釈も可能性として十二分に有するものばかりで、この説についてはむしろ、完全に成立せぬことの証拠が出ており今や問題外となっている。そんなものよりは、一応はるかに説得力がありそうなのが、寺尾裁判長以下二審の判事達が出した有罪推理だ。なぜなら、こちらは捜査によって収集された証拠とそれに基づく確定判決になっているからだ。もちろん、再審とその要件を規定した刑訴法四三五条と、これについての判例が狭山事件でも適用され、有罪認定に対し合理的な疑いを差し挟むべき証拠が提出されている以上、これもほゞ風前の灯火だ。

なぜこうした現象が起こったのかと言えば、荻原佑介氏が示したようなウワサ・風聞と、それに惑わされ好き勝手に拡大解釈した推理屋の言動による。情報リテラシーの欠如したこれらの者が、果たして此のサイトの記述を理解出来るだろうかと申せば答は否だ。

このサイトには推理を標榜する頁を残してあるが、そこばかり見る者は注意したほうがいい。

驚愕の語句で思い出すのは、とある狭山事件を推理する人があるときもたらした「驚くべき新事実」のことだ。聞けば、なるほどもしそうなら誰でも驚愕し石川一雄氏の再審の門もたちどころに開くものだったが、どうも何処かで聞いたか読んだことあるような気がしたのだ。それで二、三日してからちょっと家にある本をヒックリ返してみたら、全然同じ話が狭山事件を書いた昔の本にそっくりそのまま出ていた。つまりくだんの狭山事件驚愕の新事実とか称するものは、まったくの二番煎じだったわけである。

最後に言える事は、推理と称するものの全部とそれをやる者の全員が、狭山事件石川真犯人説に向って没落し、結局はそれの同類、と、言う、現在では公然の事実であった。どこか、違いでもあるかね。

もうちょっとで恥をかかされるところであった。よってそれ以来、全ての「驚愕」に対し厳しく対処するとともに、私に恥をかかせようとした狭山事件醜聞屋を、粛清したのであった。了。

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2010/09/23
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