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佐野屋閉店

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狭山事件の佐野屋に於ける張り込みと犯人の取り逃がしは、脅迫状の発見に続いて本件第二の山場となった。

狭山事件佐野屋閉店のお知らせ

狭山事件佐野屋=基礎事実の検討の頁に記した如く、張り込み当夜この付近に居た張り込みの警察官を除く民間人は、佐野屋の家族は別とすると3人だけのようです。その佐野屋は脅迫状で身代金受渡しの場所に指定され真犯人取り逃がしの舞台となった場所です。死体発見の翌日頃、買い物に来た養豚場主の夫人が養豚場からスコップが無くなっていると話をしたのもこの店でした。この話を聞込んだ事により、スコップ紛失上申書の提出、養豚場関係者の捜査に繋がって行く。

この佐野屋について、現地からの報告によりますと、佐野屋が昨年=2009年末で閉店されたとの事です。昔はたぶん数少ない酒屋、当然配達もしていたわけですが、近年は狭山市内もめっきり大型店舗が増加しました。そうした中で地元で長年に渡って営業を続け、本件に関心を持つ者には格別の存在であった同店の閉店はおおいに惜しまれますが、これも時代の流れと申せましょう。

▼I氏撮影▼

写真:2010年当初佐野屋
写真:佐野屋2009年末
画像:佐野屋閉店のお知らせ
(こちらは店の出入り口の硝子に貼ってあったそうです)

今は僅かに自動販売機のみ稼働中の様子。
「中の什器も既に片付けられてしまった様子で、元店内では子供が遊んでいました」(I氏談)

やはりこの佐野屋で狭山事件の犯人を取り逃がしたことが殆ど直截に石川一雄氏の冤罪に繋がり且つ本件の実体的真実の解明に大いなる困難をもたらしたこととは確かなことで、今更言っても詮無きことですが、この点は大いに悔やまれます。

狭山事件佐野屋関係

まあ近ごろはこの元佐野屋近辺に限らず狭山市内では、大型店舗の出店も激しく、何も無かったと言って良い狭山事件当時とは天地の差と申して良いでしょう。佐野屋先の薬研坂も一部を残し事件当時の面影はありません。

尚、元佐野屋はこの後に更地となり、現在は新築をして住まわれているようです。思い起こせば2004年5月1日、自転車を借りて堀兼付近から狭山市駅方面へ向って現地調査をした時に、そうやって自転車で移動していると春とは申せ天気の良い日はけっこう暑く、佐野屋で飲料を買って一息ついたことがありました。その佐野屋が閉店したのも、時代の流れと申すものでありましょう。

関係ありませんがある所に、閉店から1年以上も経った頃にこの佐野屋が佐野屋酒店としてありますよ、的な記事を見かけた。どうもネットで調べてそう書いたらしい。ものごとを調べるのに、インターネットを見るだけで済ませて(済ませて自分ではそれ以上調べようとしない)検索に出て来たことだけを読んでものが解ったような気でいると、こうなる。

狭山事件と佐野屋1

画像-佐野屋 二審検証写真
佐野屋

佐野屋での疑問は既に幾つかが指摘されているが、筆者が特に感じる処を以下。

1=捜査陣は脅迫状の「車で行く」に引っ掛かり、道路の交差点などに重点配置した事が犯人の逃走を助ける結果となったと指摘されているが、実際は県警捜査一課長補佐・大谷木警部は、午前中に狭山署に到着した後、狭山署の捜査員は佐野屋付近の現地の地理に明るい者を張り込ませる計画を夕方までに策定していた。処が、夜8時になって狭山署に乗込んで来た中勲県警本部刑事部長、将田政二捜査一課次席、長谷部刑事調査官らが、まさに脅迫状文面通りに車での出現(だけ)を想定したものに変更してしまった。しかも、配置人員は土地勘の無い県警本部員中心にしてしまった。初めの計画通りにやっておれば、犯人を取り押さえる事が出来たかも知れない。大谷木警部は後の二審公判で、これが佐野屋での狭山事件捜査の大失敗に繋がったとおおいに嘆き、自嘲している。急に県警幹部が乗込み、計画を変更したのは何故か。

その理由としては以下が考えられる。

A=状況は全然違うが、「車」と言うものが介在した為に犯人を取り逃がした一ヶ月前の「吉展ちゃん誘拐事件」が相当なトラウマとなっていたのでは無いか。と言うのは、吉展ちゃん事件の場合、捜査陣よりも先に家族が犯人指定場所に「車」で向かってしまい(荷台に捜査員一名が潜入してはいたが)結果として僅か3分の差で、身代金を犯人に奪われて逃亡されるというミスを犯していた。

たが為に(この時=吉展ちゃん事件の時は家族が車で走ったのであったが)犯人が脅迫状で言うようにもし車で来るなら、今度こそ逃してはならないのであった。県警本部は名誉に賭けてこう考察した。よって、夜になって現地署に乗込んででも、犯人が車で出現する事を想定した配置に変更したのであった。

B=既に出来上がっていた配備計画を覆して犯人側の意図通りにする。この事から、「警察内部に犯人に通じる者、少なくとも意図的に操られていた者がいたのでは無いか」との憶測を呼ぶ原因にもなっている。

吉展ちゃん事件での失敗があったからこそ、今度こそ、犯人を取り逃がす事は絶対に不可である。だとしたら、車、徒歩、両者を含めあらゆる可能性に対処した計画を県警本部も取るべきであったし、普通ならそうした筈だ。それをしないで、徒歩での出現の可能性はあっさりと切り捨て、車での出現の可能性だけを想定した配置計画に、しかも夜8時を過ぎてから、早急に(強引に)変更している。犯人側を利するだけである。

ちなみに、亀井氏はこの事を以て、佐野屋での立回りが「自作自演」だとする説を唱えた程だ。それはそれとしていずれにしても、狭山事件佐野屋での犯人取り逃がしの原因がなんだったのか、二審の大谷木警部の証人尋問で初めて明かとなったことは確かだ。佐野屋の張込みを指揮し、当夜最も佐野屋と真犯人に近い場所に居たにも関わらず、何故今迄証人に呼ばれなかったのか、大谷木氏自身にも納得はいかなかったようだ。この証言の後から見れば、張込み計画変更の事情を知る大谷木警部を、法廷に出したく無かったのが理由であったろう。

狭山事件と佐野屋2

疑問と言うよりも現地で得た感想を少し。

2=一昨年(2004年)の8月29日に現地へ赴いた時には、事件当日のような雨であった。被害者宅N家の墓所へ行こうとした時のこと。農道の水たまりを避けようと、水がたまっていない畑の方へ足を踏み入れたら、泥沼のように靴が土の中へめり込んでしまった。一見、水もたまっていなくて、そこなら靴も濡れずに済みそうだと思ったのが失敗の元。

降雨の最中、或いは降雨の後、水をふんだんに含んだ畑の柔らかい土の上を歩いたりすると、ヘタをすれば足首まで泥の中に嵌ってしまう事に、その時今更ながらに気付かされた。増してや、その様な畑の中を走ったりすれば、雪の中を走るのと同じで、足を取られてしまって素早い行動は出来ない。無理して走ったとしたら、少なくとも下半身は泥だらけになる。

事件当時は周知の通り、1日には午後から激しい降雨があり、翌2日も4時半から7時半頃迄雷雨があった。この為、現地一帯の畑地は雨水をふんだんに吸込み、筆者が体験したように、見た目はそれほどには見えなくとも、内実は足を取られるほどの泥濘状態となっていた筈だ。

5月3日午前零時過ぎ、夜陰に紛れて佐野屋に接近した真犯人は、当然、上記の様な畑地の状態を知り尽くし、尚且つ、佐野屋付近の農道に就いては夜中であってもそこを行き来出来るほどに、充分な土地勘があった者だと言う事が出来る。

狭山事件と佐野屋3

3=上の「2」で記した事をも考慮すると、佐野屋に徒歩で現れて逃走した犯人のアジトは、やはり堀兼地区のどこかに、つまり被害者の「近所」にあったと見て良いだろう。

と言うのは、例えば佐野屋への出現と逃走は徒歩で現れたとして、どこかの道路又は道路近くの雑木林などに隠しておいた車で逃走したとすればそれこそ、「車での出現を想定して付近一帯の要所に捜査員を配置していた」捜査網にどこかで引っ掛かっていただろうと思われるからである。現に5月2日の夜、正確には3日の夜中に、養豚場主が知り合いの医者と飲んで車で帰宅したところを検問に引っかかっている。養豚場主は自宅のすぐ近くで警察官に止められているので、自宅近くに張り込みがあった事は確かなようだ。

この点から考えて見ても、やはり犯人が「近所の者」「知り合いの者」であった可能性は高くなる。佐野屋から権現橋方向へ逃走し、そこで水位の低い不老川に入って逃走したと言う説は、それ也には蓋然性がある。但し権現橋にはやはり張り込み捜査員が居た。佐野屋から不老川へ行き、上流にも下流にも張り込んでいたのだ。佐野屋の張り込みは交叉点、橋など交通の要所、特に車が必ず通る場所に重点的に配置されていた。

警備の厳しい道路を通らずに、その不老川や農道などをひたすらに走り、当時の石川氏の自宅や、その他、堀兼地区からは可也遠方のアジトに逃走する事は、下半身はもとより全身泥だらけになっての事にならざるを得ない。勿論、上記の理由からこの逃走には車は使えない。

本年も5/1に現地へ赴く予定である。見分の便宜の上からは、当日快晴に恵まれる事を望んではいるけれども、もし雨が降ったなら、下記2で記した事を、参加者に体験して頂きたいとも思う、つまり、水を吸込んだ畑地を歩くと言う事が、如何に面倒で困難で、逃走には不向きかと言う事を、である。

その様な場所で、余り遠方に逃走するのは難しい。真犯人が「被害者の身内に近い者」「少なくとも近所の人」だと言う、当時からあった推測は、この点からもある程度の高い可能性で、裏付けられる事と思う。但し狭山事件の犯人が家族の中に居たとか親類の誰某があれだとかは、具体的な証拠なくば何も言えまい。

狭山事件の動機と佐野屋

かつての狭山事件推理では、狭山事件の動機そのものにも絡んで、警察が待ち受けていることが確実な佐野屋へのこのこと犯人が現れるのはおかしい、なぜならば捕まれば死刑確実だから、との考えを出発点としたものもあった。この考えによれば佐野屋以前の被害者殺害はなかったと結論付けている。殺してしまってから佐野屋へ行って捕まれば死刑確実だからト、言うのがこの理由である。

だから殺害は佐野屋後の偶発的な犯行であった、と。なるほど死刑を恐れる犯人像からはこのように考えても良い。ただ、全ての犯罪者に死刑其の他の刑罰が常に抑止力を発揮するかと申せば、それは違うと思う。現に小原保はよしのぶちゃんを殺してしまっていて身代金取りはその後だった。狭山事件でもおそらくは、既に殺してしまってからの佐野屋出現だったのだろう。この事と、佐野屋の張込み体制を犯人側が把握出来ていたか否かは、また別の話だ。

それから、死刑確実だから佐野屋へ現れるのはおかしいと、言うのなら、無実の人が認めてしまえば死刑確実なのに自白するのも有り得ぬことになる。そうであれば石川一雄氏は死刑覚悟で自白したのだから狭山事件の真犯人で確実、と、言うことになろうが、たとえば無罪が確定した足利事件の菅家さんなどは、任意取り調べ(つまりまだ逮捕前)を一日受けただけで自白してしまい、一審中は自白を維持していた。だが無罪だった。

この事実は、人間の行動や態度を刑罰の抑止力や恐怖だけで判断する事の誤りを示している。佐野屋に犯人が現れたこともこの観点から見る必要がある。

佐野屋と偽札の話

現在でも良く解らぬのが佐野屋に新聞紙で作った紙の束を持って行った件だ。ただ、これは単に現金がすぐ用意出来なかったとか、必ず犯人が捕まる筈だからわざわざ本物の札束を持って行かなくともいゝと判断したとか、その手の単純な話なのかもしれぬ。狭山事件には、このように勘ぐって考えるとありとあらゆる推理が可能な話がごろごろしている。

次姉を車で途中まで送っていった長男の証言(法廷で証人として出る人がした話、つまり刑訴法上の、事実を証明するための話のこと)によると、贋札を持参したのは警察のほうで全部やったことだと言う。警察関係者からはこの問題について特に反論らしいものはなかった。そうすると、紙の束を指示したのはやはり警察の方と考えられる。その場合、まだ人質が生きている可能性もある時点でこういう指示をしたことの理由は、やっぱり犯人が現れたら必ず捕まえる自信があったから、となる。実際は、上に記した如く張込み計画を変更したせいで取り逃がしてしまった。

これを犯人側から見ると、もし狭山事件の動機が金目的だった場合、最初から目的達成の可能性は皆無だったことになる。危険を犯して佐野屋に現れたところで、姉は金なんか一銭も持ってなかったのだから(いやまあ、財布の中に十円か五百円ぐらいは持っていたかも知れぬが)。犯人の目的達成という観点だけから言えば、犯人は警察にしてやられたことになり、人を殺しておいて、一円の金にもありつけなかったことになる。

狭山事件と佐野屋の「門」

今や此の事件を知る為のコンテンツとしてはまともな者からは全く相手にされなくなった感のある「狭山事件Wikipedia」によると、脅迫状で

「前の門」が「さのヤの門」に書き換えられていたが、佐野屋に門は存在しなかった。

ようだ。書き換えられていた場所は「前」が「さのヤ」になっていたのだとか、そういう細かい事はこの際どうでもいいとして、佐野屋に門が無かったと書いてありながら、それが事件自体にどう関係するのか、説明は皆無だ。つまり、だったら何?程度の話題となっている。

そこでそれの先を記せば、佐野屋に門があろうが無かろうが、犯人としては要するにそこに来いと伝えるのが目的であるから、脅迫状のそこは「門」が問題なのではなく訂正した「佐野屋」と言う場所が問題なのである。

又、身代金受け渡しの場所を佐野屋に変更する前は「前の門」だったわけだが「門」とは普通、敷地と外周とを隔てる役目を持ち、門柱と門扉を備えたものを言う。だから通常はドアがついた外壁のことを言うのだが、一般には特に扉がついていなくとも敷地への入口を「門」と呼ぶ場合もある。従って、場所を佐野屋に変更する前の「前の門」がある家がどこなのか誰の家なのかを詮索する場合も、別に本当に門がある家だけを想定することは不要だ。

狭山事件には此の手の、片言隻句を過大に解釈した推理が多過ぎて、却って自分自身で謎を増やし、実体を解りにくくしている者が多い。

この項=2006/04

狭山事件権現橋あたりの写真

鞄と教科書の発見現場、権現橋の現地写真集3を新規作成しました。旧入間川駅前の俯瞰位置からの写真も掲載してあります。この写真は狭山事件現場写真の頁に設置しました。としておりましたがその後、頁整理の過程でこれらの画像は、狭山事件権現橋教科書発見現場=狭山事件資料集のトップ頁に移設しました。初期の旧現地調査写真等も現地調査のトップ頁などに移設しております。

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2010/01/11
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