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狭山事件現地事務所を開設

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狭山事件の真相と冤罪の実地検証も兼ねて、現地に赴く。

狭山事件現地拠点

狭山事件の現地見分や地元資料を収蔵する拠点を開設。

狭山市内に於いて会合し、今迄行ったことがなかった関係現場付近などを回り、その後、新たに調査検証用の現地事務所としてAII氏が立ち上げた新マンションに立ち寄らせて頂きました。

余談ですがわたくしも近年居住目的以外のマンション建設で賃貸しを実施したので個人的にタイムリーな話題でもありました。

近場の狭山事件関係地点を視察

その前に、近隣の本件関係場所を車で巡回しました。

狭山市五十子米屋

▲五十子米穀店=被害者の遺体の手を縛ってあった手拭いの配布元となった店。石川一雄氏はこの手拭いの報道をテレビで見ていたので、逮捕されたあと、腕時計はどうしたのだと聞かれた時、手拭いが米屋のものだったから適当に時計も米屋の近くに棄てたと言ったわけです。

▲「薬研坂で怪しい3人組を見た」と警察に届け、逆に犯人扱いをされた揚句に自殺を遂げたTN氏宅。この家は珍しくほぼ事件当時のままだと思われる。

▲IT氏轢断場所。「轢殺と言うけど、生体轢断だったのかどうか。もしかすると死後轢断だったのではないですかね」「下山事件と同じ疑問ですね」「生活反応があったのかどうか」ほんの雑談であったが、このような事も、現在となっては知る由も無い。

石田登利造氏と狭山事件の関係

この線路で変死した石田登利造は狭山事件の逮捕者には入っていませんが、捜査対象者にはなっており、6月20日に上申書と捜査報告書が作られています。石田養豚場=部落に目をつけ、そこを集中的に捜査していたのだから当然でしょう。線路での登利造氏の死自体については、自殺か事故死と思われますが詳細は不明です。死亡当日の入曽駅の日誌が無くなっていたと言われていますが、それが事実だとしても、警察に任意提出されてそのまま返却されなかっただけかも知れません。そういうことは良くある事です。

石田登利造氏が狭山事件に関係している、どころか実行犯と今だにそう推理するマヌケが多い。問題外とだけ記しておこう。

狭山事件現場へ行く事の効用

こういうように狭山事件の現地へ行くことには、現場感覚を身を以て知ることが効用として第一に挙げられるでしょうが、それ以外に、継続的に実行する現地調査を通じて、狭山事件の過去の証拠でまだ世間に(特に推理をやっていたのでは絶対に)出回らず知ることの出来ぬ事実を知る事が出来る、と、いうのがあります。これらは、過去の推測を覆すものが多い。

こうした証拠が殆ど出回らぬ理由は、狭山事件そのものには余りにも無関係過ぎることが自明でいちいち発表するのも不必要だからです。こうしたことを知らずに本件を語りいわんや推理などやっていたことが恥ずかしくなりますよ。

狭山事件の長兄手記について

近ごろ再度、所謂「狭山事件の長兄の手記」と言われる文章を読んで見たのですが、やはり『犯人逮捕の報をきき本当にこの人なのか?』と言う部分及び『これも農村という古くからの何者かゞ ひそんで居たのではないのか?』という処に、少なくとも被害者宅長兄氏の当時の心情が垣間みられます。

「本当にこの人なのか?」
には明らかに「この人ではないだろう?」と言う感じがしますし、
「これも農村という古くからの何者かゞ…」
以降の部分については、表面に現れたもの以外の何かを示唆すると思えるのです。

一般的な被害者遺族の立場に立って、犯人逮捕の時に言う言葉を考えた時に、これらの言葉がどうしても引っ掛かるのは筆者だけではありますまい(もっとも現在では、だからと言ってこの家族に何か「秘密」があったとか申すわけではありません)。

ただ、特に『本当にこの人なのか?』という言葉は、普通に考えると、犯人が逮捕された際の遺族の言葉としては、あまり普通では出てこない珍しい言葉であるとだけは言えるでしょう。

*尚此の記事での掲載写真に就いて何か文句があったような報告を受けましたが、言いたい事がある者は名前を名乗って筆者の居る処へ来て下さい。若しくは当方からご自宅か職場の方へ伺わせてもらっても良いですよ。堂々と名前も顔も出せない者が何を言おうが、筆者は聞く耳持ちませんよ。だからそういうどうでもいゝ報告を一々して来る人間も、今後は発見次第に始末します。

狭山事件現地慰労会

3月20日午後、狭山市に於いて、狭山事件の本の出版記念慰労会を密かに開催しました。出席者は極々内輪で、昨年暮れのA11氏の現地事務所開きの時と同じです。

この日の狭山市内は猛烈な風が吹き、午前中は雨で地面もかなり湿った筈なのに、畑の砂が舞上がり竜巻状を呈するなど、まるで砂嵐の様でした。途中、有名な「堀兼の井」がある堀兼神社に立寄った処、偶然にひとつ発見をしました。

神社を整備した時の記念碑ですが、その記念碑に「建設委員」の方々の名前が刻まれており、そこには、被害者宅の長兄氏と被害者の姉登美恵さんの元婚約者(夫)であったY氏のお名前がありました。記念碑の建立は平成十年。堀兼神社の氏子としての記名です。

事件との関係でお二方ともにこれまで良く言われて来た事には、
☆裁判での証言が曖昧だったり実質証言拒否に近い処があり、何かを隠しているのではないか。
☆Y氏は妻(被害者の姉)のお通夜にも葬式にも行っていない、と公判でも述べたので、その理由は被害者宅とY氏宅の両家の間に何か確執があったのでは無いか。それも事件絡みや、勿論姉の死に関するものだったのではなかろうか。

大雑把に記せば上記のようなものです。
しかしながら、平成十年に同じ石碑の中にこの両者が連名しておられるのですから、少なくとも「確執」の方は元々公判調書を読んだ人の空想つまり推理に過ぎず、実際は地域の人民としてその後もきちんとつきあいがあり、だから後年、平成の御代になっても、このように協同で神社の整備工事にも名を連ねているのだと考えられます。或いは、少なくとも、被害者の姉が亡くなった時にはなんらかの確執があったのかも知れませんが、その後修復したと考えられます。

他にも、この事実から考えられる事は沢山ありますが、それらはまた考えが纏まった時に記そうと思います。いずれにせよ、やはり大切なのは現場へ行くことです。さすればこのように思わぬ偶然があるものです。

午後5時頃、予定通りA11氏管理・経営の「現地調査事務所」に落ち着き(文字通り事務所であって住所では無い)この推理マニア本の慰労会を執り行いました。

と、もうしますかこの頃は比較的高水準の検証書籍と思っておりましたがそれは私の誤解でした。申し訳ありません。

狭山事件現地調査

狭山事件の特別抗告が棄却されて第二次再審請求が終結した2005年に、現地事務所へ行って初めて石川さんに会ったあと、このサイトもそれなりに視聴されていると思われるから、参加を募ればなんとか集まってくれそうだと思ったのが始まりです。

2007年の狭山事件現地では入曽集合で堀兼方面を見分。駅から歩くと大体30分と判明。その後の現地見分は大体以下の通りです。

狭山事件現地調査2008年=此の年から三者協議が開始され証拠開示勧告があった。

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2009/01/21
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