匿名性の考察←移転先

匿名性の考察

We are currently doing server relocation.

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--

We are currently doing server relocation.

此処に書いたようなことは後年、表現の自由と差別との関係として、狭山事件の言論総体にも関連して記している。

匿名言論と狭山事件

近頃、このサイトで取扱っているような刑事事件の諸問題には直接には全く関係の無い事に関連してふと、しかし間接的には狭山事件に関する言論にも関係する、もう数年も前にある処に記した自分の記事を思い出したので再読して見た処、そこで述べた内容と現在の考え方が全く変化していない事を発見した。この機会に、その原文をここに転載しておく事にする。

『匿名性』に関する考察

「匿名性」がインターネットの「常識」と化している現状は、ネット上の言論が劣悪なものになっていることの、根本的な原因であると思われる。

インターネットは、電話回線を利用した通信の一種であり、つまりは、電話の一形態である。

そこから、このようなことが考えられる。
ある場所に電話をかける時、まずは自分の名前を名乗ることは、最低限の常識であろう。また、顔の見えない、会ったことも無い相手に対し、せめてもの「敬語」の類いを、お互い、使用するものである。

ある時、突如として電話が鳴り出てみると、わけの解らぬ、記号のような「ハンドルネイム」と称するものを名乗られ、いきなり「タメ口」をたたかれたとしたらどうであろう。そういうのは、一般的には「イタズラ電話」と言ばれる。

ネット上では、このような非常識がどういう訳か「常識」となっており、そのことにほとんどの者が疑念を抱かない。そして、このような「ネットの常識」というものが「おのれの名を名乗る」という言論に於ける最低限の責任の所在の告知を皆無とし、逆にこのような匿名の常識、偽名を使ってなんら恥じることの無き風土というものが「名前さえ名乗らなければ何を発言しても許される」という、言語道断な無法地帯を形成するに至った。

しばしば様々の掲示板に於いて、お互いに匿名=本名を隠蔽すること、またはハンドルネイム=本名を偽ること(要するに偽名)であることをよいことにした、不毛且つ醜悪な論争が展開されている。このような事実は大手掲示板等を閲覧すれば明らかである。

我々は、決して、匿名投稿やハンドルネイム使用そのものを排除しているわけではない。

そうではなく、ネットの匿名性の中に自ら埋没するからには、その際の発言には、実名記名の場合以上に、他者に対する格段の礼儀上の配慮が必要であろう、ということである。何故ならば、「名前を名乗らぬ」ことそのものが、その時点で既にして他者に対して(特に実名を名乗っている側からすれば)無礼そのものなのだからである。再び「電話」の例で申せば、かかってきた電話の主が名前を名乗らなかったなら、それだけで「失礼な電話だ」と、通常の常識を所持しておる者ならば判断するであろうからである。

であるならば、匿名性利用でのネット、掲示板、私信メール等の使用時、その発言には、充分な礼儀作法上の配慮があってしかるべきである。たとえ冗談や戯れの類いであっても、それを受け取った相手にとっては単なる悪ふざけではすまされぬ感情を持たされることもあるのだということを、1にも2にも、心してゆきたいものである。

そうしてこのことは、何も特別なことではなく、実は世間一般の人間関係構築に於いては「道徳」の問題であること、インターネットもそのような世間一般の内部での、通信手段の一種に過ぎないのであってみれば、当然のこと、この当たり前の「道徳」が適用されるということ、もしそれをわきまえないのであれば、その者は匿名利用をするべきではないし、ひいてはネット利用をするべきでないということである。

現状のネット状況では、世間の常識はネットの非常識となっている。
実名を名乗ることのほうが、変人扱いをされかねない。大人として、他人様に対して当然な敬語を使用しただけで、変態扱いをする有り様である。

他方で匿名性の陰に隠れ、己を安全地帯に確保していることを良い事に、第三者から見てもとても読むに耐えぬ暗愚・卑劣・非礼極まる言葉つきでもって、他者を揶揄・中傷して憚るところが無い。 そしてこのようなネットの「常識」は、組織的或いは商売上の迷惑行為、ひいては犯罪の温床ともなっているのである。

これほどまでにインターネットが普及し、それと同時にこれほどまでに非常識な言動を働いて憚る事無き媒体に堕落したからには、最早ネット上に於ける活動、及び言論につき、「規制」の網を強化するより他、この対策はないであろう。それがたとえ、今迄のようなネット上の「自由」を侵害することになっても、である。

そのような現状と現象を考えるにつけ、この根本原因が、戦後日本に於ける「自由」というものの無際限、無定見な拡大解釈にあることは、全くもって明らかな事であろう。今やそうして育てられた「自由人」どもが、「インターネット」という名の恰好の武器を与えられたということである。

「我こそは〇〇第何代の後胤…」と大音声でおのれの姓名、出自を名乗り上げ、死を賭した戦いに臨んだ中世(以降の)武将の心意気を美しいものに感じてしまう私のような人間は、今のネット上ではまさに変態の類いらしい。

なお、インターネットも所詮は電話であるということは、それなりの技能と設備、人員さえ揃える事が出来れば、「逆探知」も可能であるということを意味する。こうした仕組みを駆使して、発信者の情報を元にプロバイダに辿り着く。プロバイダは通常、加入者情報は公開しないが、口を割らせる事は簡単なことである。世間には、ネット上で陰に隠れて無礼を働く世間知らずのつゆ知らぬ、「裏」があるということ、国家の取るネット規制対策が被害に比べて常に遅れを取り、また根源的な道徳教育が現体制からは到底望めない以上、我々は既にその種の対策を自前で用意しつつあること(WEBプログラマ・システムエンジニア・探偵業者及び経験者・ハッキング技術所有者等で組織する)を、ここに於いてその手の犯罪者及びその予備軍に向け、警告するものである。

 参考サイト=『掲示板やブログは必要か』野嵜健秀氏
 『大西赤人/小説と評論/今週のコラム』大西赤人氏

*極々一般的な、どんな素人にでも利用可能な無料のアクセス解析であっても、いつどの地域から、どんな接続経路で、どんなリンク元から或いはどんな検索語句で、と言った程度の事は解る。そして上記の如く、逆探知技術と足、そして文字通り腕力で稼ぐプロ集団の手に委ねれば、更に「誰が」と言うところに迄辿りつく事が可能。逆に言うと、テロリストや巷の暴力団又はそれに類する犯罪組織が、この手の技術を駆使し始める事を警戒しなければならない。高度な自己防御を施した接続経路の使用を除く現在のインターネットの通常の閲覧環境に於いては、上に述べたような逆探知可能な、丸裸の通信情報が剥き出しになっている。即ち、ただ何処かを閲覧すると言うだけで、個人特定に充分な情報を垂れ流してしまっているからである。よって、匿名を利用しようがしまいが、インターネット上に於て安全地帯など存在しない


☆上記リンクにある野嵜健秀氏のサイトもこの機会に再読してみた処、昔拝読した頃から更に随分更新されているようだ。筆者は必ずしも百%野嵜氏の主張に賛同する者では無く一部は全く別の意見も持っているが、しかしほとんど筆者の考え方に近い事が多い事も再確認した次第。

狭山事件の議論は不要

ついでであるので筆者が野嵜健秀氏と多分異なる(と言うかもう余り筆者が問題にしていない)と思われる点も記しておきましょう。筆者が野嵜氏の頁を読んだのは2001年頃でした。最新更新は昨年暮れ頃にされていますが『掲示板におけるやりとり或は、個人が運營してゐる「ブログ」のコメント欄への書込み』に於ける『論争』が『成立しない』場合の理由に就いて述べられています。どこが異なるかと言うと、筆者はもうほとんど、と言うか全く、そのような事に関心が無いと言う点です。

所詮、お互い一面識も無く名前さえ知らない同士が「議論」や「論争」をする場として、ネット(またはウェブ)等に期待する方が可笑しかったのです。そうした事は、少なくとも筆者にとっては実際に会って話をするのが一番良い事であったわけです。電話じゃなんですからお会いしましょう、と言う事です。

海外を含む遠方の人とはそれではどうするのだ。そうした遠方の人と話をするのに、ネットはまたと無い安価且つ便利なツールでは無いだろうか。と言う反論が予想出来ますが、安価で便利ではあるが容易に安易にも陥ると言うのがネット上に於ける議論と言うものであると思います(結局その点では筆者も野嵜氏と同意見なのかも知れませんが)。

海外や遠方に居る人物であっても、どちらかが本気で会いたいと思えば、そこへ行くのです。つまり本気度が問われるのです。もしそうまでして行かないとなれば、所詮はそれだけの相手と言うだけの話です。逆に同じ町内に住んでいても、近いから会うとかお付き合いをすると言うものではないでしょう。要するに距離の問題では無く、本気度とあとはご縁があるかどうか、と言うものです。

卑近なたとえですが、ある種の衣類などは通販で購入するのは嫌だと言う人も居ます。するとその人は実際に店に行く必要があります。もう少し話を広大にすると、ネットだけで海外を含む遠方や異文化圏その他諸々の事柄の全てを把握する事が出来るのであれば、食品でさえネット或いは電話で配達依頼が可能となっている現在、自宅に閉じこもりっぱなしでも全然良い事になりますが、やはり例えば海外のある国の事を良く知るには、実際にそこへ行きそこの人と会話をして見る事があった方が良い道理です(当サイトがやっている「狭山事件現地調査」と言うものもそういう理由によるものです)。

狭山事件に関して

狭山事件に関しては、原則的に議論はもやは不要です。何故ならば本件に関わる事柄については既に行動の段階に移行しているからです。議論と言うよりも意見の交換が必要となるとしたら、それは行動の仕方について即ち再審活動をどう進めるかのテーマについてだけです。それとても、実地にお会いしての事になります。その場は現地調査であったり、要請活動の場であったり、活動者会議の場であったりといくらでも実際に存在しますし、自分で作ることもいくらでも可能です。

しかし現実的には、狭山事件ではそれらの議論すらもはや不要でしょう。何故ならばやらねばならぬ行動は既に定まっており、行動について詮索したり迷ったり議論の余地も必要もなく、決定は実行するのみであるからです。

ではネットで出来る事は何かと言う事になると、情報を収集する事と、自分が情報源となる事です。狭山事件について言えば、おのれの知っている事柄を自前サイトで公開するだけのことです。お互いにそれをやり、あとは現実の行動だけです。電気代や電話回線料金とプロバイダ料金だけであとはほぼタダでこれだけの事が出来るわけですから、やはりネットは便利なものではあります。

但し一般論として、ネットに全ての情報が載っているわけでも無く、全てが事実かと申すとそうでもありません。そうした粗悪コンテンツを見抜くには、やはりおのれ自身の努力が必要となるでしょう。私自身に関して申せば、ものを調べる為にインターネットを利用することは殆どありません。

それから誤解の余地なく記しておけば、インターネットで情報発信などと言ってもそれをする前に行動です。要するに狭山事件でも他のなにごとであれ、口より先にまず手だというのです。

インターネットで出来る(と期待出来る)事は情報収集と情報発信のみ(残りは通販程度)と割り切り、時節柄の御挨拶やある種のラブレター、メールでアポを取る事などは除き、議論的な会話は無駄であるので一切(期待を)しない事。即ち問答無用。これが筆者のもっとうです。

スポンサーサイト
2010/07/29
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。